開き直ったら母乳育児が少しだけ楽になった話

「私のときってどうだったの?」と母に訊ねたら「あなたのときは2人目で仕事もしてて忙しかったから母乳あんまり出なかったんじゃなかったかな〜ミルク使ったな〜」と特に引け目を感じるふうでもなくさらっと言われて、なんだそうなんだ、と拍子抜けした。私が母乳にこだわるのは、母親の影響の可能性もあるなと思っていたけれど、どうやらそうじゃなかったらしい。

もともと母乳育児にそこまで思い入れがあるわけじゃないと思っていた。それなのに今、私はどれだけの母乳量を子どもに飲ませられるかにやっきになっている。産後、あまり母乳が出なくて思い悩んだときも、粉ミルクでいいじゃないか、なんならそのほうが子どものためでもあるのでは、と何度も自分に問いかけたのに、結局母乳を諦めることができなかった。医学的なメリット・デメリット、母親のライフスタイル的な意味でのメリット・デメリットはインターネットに山ほど転がっていた。出産前は、どちらかというとインスタで流れてくる「完ミ(100%粉ミルクで育てること)で子どもも自分も大切にする育児」のほうが今っぽくてスマートな感じがして(実際はミルクでも大変なことはある)憧れていたのに、蓋を開けてみたら全然スマートでもなんでもなく、泥臭く母乳量を増やすために、毎夜子どもが寝ている間に電動搾乳器でずこーずこーと母乳を絞る日々を過ごしている。

出産直後、子どもがついに病室にやってくるとなった日の朝、おっぱいを絞ってみたらじんわりと水分が滲んだときは感動した。不妊治療でできた子どもでも、40歳間近の高齢出産でも、産んだらほんとうに母乳が出てくるんだ! と生命の神秘を感じた。この母乳で子どもが育つのか試したい気持ちが湧いてきた。その時から、出産前はなかった母乳育児への思い入れが少しずつ育っていったのだと思う。ところが、母乳量はその後もあまり増えず、退院後もしばらく時間がかかった。地域の助産師さんに相談したり、電動搾乳器を買って搾乳したり、いろいろ試行錯誤しながらやっと最近になって、母乳を主体にミルクを必要に応じて足すくらいで育児ができるようになった。

もうすぐ母乳量が努力で増える時期が終わりつつある(産後100日頃までと言われているらしい)。これからは、今の量を維持しつつ、子どもが飲みたがる様子に合わせてミルクの量を増やしたり減らしたりしていくことになる。ほんとうは、もっともっと子どもがお腹いっぱいになるくらいまで母乳を飲ませてあげたかった。そこまでには至らなかったことが悔しくて最近は搾乳しながらも少ししょんぼりしてしまう。合理的ではないナンセンスな悩みだな、と思う冷静なもう一人の自分もいる。言ってしまえば、母乳でもミルクでも、どちらをどうあげようと子どもが元気ならそれでいいのだ。もやもやしているのは親の私だけ。それがわかっていてもすっぱり割り切って合理的でスマートな育児ができないのは、自分でも不思議だ。考えてみれば、不妊治療までして子どもがほしいと思う気持ちにも合理的な理由なんてなかった。「本能」と言ってしまったらなんだか簡単だけど、なんとなくそういうものでもないような気がしている。これまで長いこと触れてきたどっかの価値観の刷り込みか、生命としての自分に対する飽くなき好奇心か、そういうものが絡み合ってもはや明確に自覚できないような形で根付いているんだろうなと思う。

母乳が増えなくて思い悩んでいるとき、ある日「とにかく自分は子どもに母乳をたくさんあげたいのだ」ということは素直に認めることにした。悩んだ末に母乳にする理由が見つかってそうするのではなく、とにかく小難しく悩むのをやめた。自分が母乳をあげたいと思う理由もわからないけど、理由を探すこともやめた。合理的でないとか、ミルク育児でいいじゃないかとか思うことをただただシンプルにやめた。いつか、保育園に入れるときとか、離乳食が進んだときとか、そう遠くない日にどうせ母乳があげられなくなる日がくる。そのときに、ほんとうはいろいろ試せることがあったのに、なんでか諦めたんだよな、と思わないように、やりたいことはやってみよう、そのために気力と体力と時間とお金をかけることを自分に許す! とあるとき決意したのだ。そしたらいろいろと少し楽になった。インターネットでは、「なぜ母乳育児を諦めたのか」みたいなコンテンツもたくさんある。どうしようもなくそうした人も、メリット・デメリットを見比べてそう決めた人もいた。私は、「理由はわからないけど、母乳をあげたいからあげる」と決めた。なんだか無責任で自分勝手な気もして怖かったけど、そう決めたら楽になったのだからしょうがない。それからは今このときの、一回一回の子どもとの授乳の時間を楽しめるようになった。結局それが一番大事だと今は思える。

40歳の誕生日と生後2ヶ月の息子との宮城帰省

先日、とうとう40歳になった。39歳後半くらいから自分はほぼ40歳の気分で過ごしていたのでなんということはないかと思ったけど、いざ30代が終わったと思うと、なぜか切なくなった。30歳になったときも、くさくさした気持ちになって、仕事終わりに新宿の占いのやかたで占ってもらった。はじめは手相を見てもらうと思ったが、30歳なら手相くらいじゃ期待するものはなにもわからないよと言われて、算命学で占ってもらった。たしか3000円くらいした。その結果を友達が営むコワーキングスペースに持って行って一緒に読んでなんやかやと話したのが懐かしい。

40歳の誕生日も特に何事もなく、翌日から宮城の実家に帰省予定だったので、その荷造りをして、夜はドミノピザを頼んで夫と二人で小さいピザを一枚ずつ食べた。息子が泣いてしょうがなかったので届いたピザを眺めながら授乳をしていたらあっという間に冷めてしまったけど、ひさびさの宅配ピザはおいしかった。 そう考えると、30歳のときからはだいぶ状況は変わっていて、結婚したし子どももできた。あの頃占いで知りたかったような未来は、理想通りでないことはところどころあれども、おおむね叶ったのじゃないかと思う。ありがたいことだ。

30歳のときは、未来がどうなるか全くわからないことがとにかく不安だった。仕事もうまくいってなくて年齢のわりに給料も少なかったし、恋人もいなかった。確定していることがあまりなかった。40歳は、いろいろ確定していることが多くなってくる。あと20年くらい普通に頑張ればこういう仕事はできそうだとか、給料はどのくらいになりそうだとか、子どもを育てるならお金がどのくらいかかるとか、家を建てるならどうとか。あの頃より満たされたことは多いけれど、その分、身動きできる範囲も心地よい程度では絞られてきたんだなと感じる。次の10年、50歳になる頃には、今思いもよらないことがどのくらい起きているんだろう。そういうことが少しでも起きるような人生であるように、動き続けて変わり続けていきたいと思う。

というわけで(?)、今週は2泊3日で実家に帰省してきた。初めての遠出、初めてのお泊まり、しかも2泊ということで、ちゃんとやれるのか、体調を崩したりしないかいろいろと不安だったが、何事もなく戻ることができた。2ヶ月で泊まりがけは早いと思う人もいるかもしれないが、息子にとっての曽祖父母(私の祖父母。なんと二人とも健在)になるべくたくさん会わせてあげたいのと、夫が育休中のうちに一度行っておきたかったのもあって、挑戦することにした。先日訪問してくれた助産師さんにそのことを話したら、いいですね、大丈夫ですよ、と優しく背中を押してくれたのが心強かった。その時はじめてちゃんと息子を連れ出すことへの罪悪感がなくなった。帰省までいかずとも、外出などのチャレンジにはいつもうっすらと罪悪感がつきまとう。

車移動や新幹線ではほとんど困ることはなく、息子も空気を読んでか終始すやすや眠ってくれた。むしろ実家についてからが大変で、昼も夜もわりかしよく泣いた。あまり泣いているところを見たことがなかった両親が、どこか痛いんじゃないか、熱はないかといって心配していた。実家から戻って1日たつ今のところ異変はないので、単に普段と違う刺激に興奮していたのじゃないかと思う。

実家では、初孫ということもあって、みんなが息子を可愛がってくれた。私が子どもの頃に使っていたという、レトロなおもちゃも出してきて遊んだりした。現代のおもちゃでは聞いたことがないようなものすごく複雑で幻想的な音がするおもちゃで、息子が目を丸くして興味津々でその音を聞いていた。

他にも、母が子ども向けの歌を歌うので、それに合わせて合唱した。ぶんぶんぶんとか、犬のおまわりさんとか、春が来たとか、とにかく選曲が古風だったので笑ってしまった。かくいう私も今はどういう童謡が歌われているかなんてわからないのだけど。ネットで「0歳 手遊び」とかで検索して出てくる歌をいくつかうろ覚えのまま母に教えて一緒に歌った。母は昔から歌うのが好きで、2人で車に乗っている時などは学校で習った曲なんかを適当に合唱したりしていた。母は子どもの頃聖歌隊に入っていたのもあって、即興で簡単なハモリも入れられる。なんどもせがんでいろんな曲でハモってもらったものだ。その後も、母が引き出しから木製のリコーダーを出してきて、エーデルワイスなんかを吹いたりするので、それに合わせて歌ったりもした。

2日目は、母の古い着物を着て近所の神社にお参りに行き、写真を撮った。お宮参りは関東でちゃんとしたのをやるのだけど、その予行演習みたいなものになった。母がわざわざ和裁の先生を呼んでくれて、家で着付けてもらった。夫もアンサンブルの着物を着た。息子も赤ちゃん用の袴を着せた。着物と袴が繋がっていて、スナップボタンで全部一気に着せられるようになったものだ。ネットで買ったものだったけど、どんな作りになっているのかと、和裁の先生も興味を示していた。着物についての知識なんかを話してもらいながらあれよあれよと1時間ほどで2人分の着付けが完了して、魔法のようだった。

最近曽祖父が内臓やら目やらにちょこちょこと不調が出てきて、寝たきりというわけではないけれどおっくうがって寝床からなかなか出てきてくれなくなっていた。着物を着たよと声をかけたら、寝巻きのまま出てきてくれたので、一緒に写真を撮ることができた。私と夫と息子、両親、祖父母、総勢7人の集合写真が撮れた。みんな元気なうちにこういうことがたくさんできたらいい。(これも40歳近くになってきて思うようになったことだ。30歳の頃はこんなこと思いもしなかったし、実家なんかめんどくさがってなかなか帰らなかった。)

そんなこんなで、短い日数ではあったけど、いろんなことをして遊んで帰ってきた。家に着いてしばらくすると、息子がいつもより多くクーイングすることに気がついた。ベビージムの下でじたばた遊びながらくぅーくぅーと一人で何度も呟いている。普段はほとんど夫婦2人としか接してないので、みんなに囲まれて3日過ごしたことが息子にとって良い刺激になったようだ。ずっと息子とお話ししたくて、毎日あーとかうーとか言ってクーイングの真似事をしたり、たわいないことをとにかく話しかけたりして頑張っていたので、それよりも実家での数日の刺激でこんなに変わるのかと嬉しい反面ちょっとだけしょぼくれた。それでもくぅーくぅーと話す息子の口元が愛おしすぎて誰の手柄かとかそんなことはすぐにどうでもよくなるのである。

出産後の夫婦間の家事バランス

育児生活が始まって2ヶ月が経った。今日は朝から整骨院に行ってきた。出産直後から怪しかった腰がついに悲鳴を上げたので、3週間ほど前からちょこちょこ通っている。外に出ると、駐車している車には昨晩降った雪が積もっていた。めちゃくちゃ寒かった。身体が冷えると母乳の出に影響するような気がして嫌なものだ。

1ヶ月検診を終えて、身体の回復が問題ないことがわかってからは、そうやってちょくちょく一人でも出かけられるようになった。数ヶ月ぶりに髪も染められたし、近所のゴッドハンドにマッサージもしてもらえた。友達とランチにも行けた。その間、子どもは夫が見てくれる。

夫は3ヶ月の育休をとってくれたので、育児と家事は基本的には2人でやっている。2人で、とはいうものの作業量としては私の体感として、私と夫で3:7。圧倒的に夫の方が多い。 私は基本的にあまり料理以外の家事をやらない。掃除、洗濯からゴミ出しなどのこまごました家事まで夫がやってくれている。 それは妊娠・出産をきっかけにそうなったわけではなく、妊娠前からそんな調子だったので、つわりのときも、いよいよお腹が大きくてできることが少なくなってきたときも、切迫早産の入院中も、問題なく家は維持されていた。

出産後は、全治2ヶ月の交通事故のようなものと例えられるように、直後はろくに動けなかったけれど、急に夫婦間の家事バランスが変わって困るということもなかった。 私は3の部分で、自分の体調の維持・回復、母乳の出が悪いことや子どもがおっぱいをうまく咥えてくれないことを思い悩んだり、子どもの体重増減や、行動の一挙手一投足に喜んだり狼狽えたりすることだけに頭と身体のほとんどを費やしていた。あとは、気まぐれに洗濯した服を畳んだり、ネットで食材を注文したり、それを使って簡単な料理をしたりするくらいだ。決まったルーティンはあまり担当していない。それでも、産後1ヶ月はそれだけで精一杯だったのだけど。

そんなこんなで、我が家では子育ての主体が母親で、父親はお手伝い、ということは全くなく、どちらも同等に主体的であるように思う。ただ、周囲の反応というか、声掛けはそれに対してちょっと違っていて、たまに不思議な気持ちになることがある。 たとえば、1ヶ月検診で病院に行ったときに呼ばれたり、説明を主に受けるのがおもに私だったり、区の支援制度で家を訪問してくれた助産師さんが主に気遣うのが私だったり、その訪問中に夫がオムツ替えをするとその作業スピードが速いことをえらく褒めたりするときだ。嫌な思いをするというほどではないが、ときおりしっくりこないような居心地の悪い気分になる。

出産後、子育て関係のYoutubeを見漁っていたら、頻繁におすすめ動画に出てくるようになったので、ハロー!ミキティチャンネルをよく見るようになった。特にミキティのファンだったりしたわけではないのに、今になって毎日のようにミキティを見ている。ミキティは、元気でポジティブで、お悩み相談の答え方でも言ってることにブレないので聞いていてさっぱりする。授乳などしながらなんとなく流していることが多い。 最近、ミキティが「夫が寝たあとに」という地上波の深夜番組で子育ての話をしていることを知ったので、録画してそちらも見るようになった。ちなみに、夫の反応はあまりよくない。まあ、そうだよな、と思う。まずもってタイトルからしてよくない。うちでは3時間おきの授乳も全部夫も一緒に寝起きしている。テレビ方面の文化なのか、妻と夫にあえて対立構造があるように演出しているのが、見ていて違和感に耐えられないようだ。積極的に見ているほうの私も、別に夫が寝たあとでなくてもいいのにな、とは思う。女性ゲストだけでなく、男性ゲストも交えて子育ての話をしてもらえたらそれが一番我が家にとってもリアルだし、ありがたいのになと思う。今日も、イクメンは定義が難しいという話題が番組内で出ていて、イクメンなんて言葉もさっさと死語になってほしいなと思った。無駄に偏見を生んだり当事者を苦しめているような気がする。今度から番組枠が昇格するらしい。このタイトルのままで昇格するのかとちょっとだけ残念な気持ちになった。

切迫早産入院と出産の思い出

2023年12月26日。クリスマスが終わって時計の針が少しすぎた頃、わたしのもとに大きな泣き声をあげながら、2720gの小さな男の子がやってきた。 助産師さんによって取り上げられた赤ちゃんを腕に抱いたとき、すぐに私は、ああ確かにこの重さだった、この背中の丸みだった、このもぞもぞ動くスピードやリズムも知っていると思った。これをお腹の中や、お腹を撫でる手のひらで感じていたと確信した。初めて会って顔を見る子だけど、その感覚、感触でこの子がずっとお腹にいたあの子だというのがわかる気がして、それがすごく神秘的で、ものすごく感動した。

あれから、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている。出産直前の陣痛がどんな痛みだったか。お腹がどんな大きさでどんな形で、胎動の感触がどんなだったか。それが驚くほど早く記憶から薄れていくのを感じる。産んだ直後は、あんなにまざまざとリアリティをもって感じていられたのに。 あのとき誰が何をしたか、何を言ったか、自分が何を考えていたかのような文字として語れるものや、映像として思い描けるものはもう少し覚えている。ただ、手触りや痛みのような感覚はメモリから揮発するように、新しいもので上書きされるようにどんどん忘れていってしまっている。 それがすごく寂しくて、せめて文字として記録しておきたくて、出産に(可能なら妊娠についても)まつわることを少しずつ書き残していきたい。 ただ、あまりまめな性格ではないので、どのくらい書き残せるかは自信がない。自分に期待しないでおこうと思う。

生まれる前日、クリスマス当日の12月25日、妊娠36週2日目のその日まで、私は切迫早産で入院していた。入院して6日目だった。 12月のはじめ、産休に入る直前に少量の出血があり、そこから自宅での安静を言い渡されていたのだが、12月20日、35週4日目、午後から深夜にかけてお腹が張り続け、徐々に痛みを伴うようになったので、産院に電話をすると急遽受診することとなり、そのまま入院となった。 私が出産を予定していたのは、総合病院ではなく個人院で、先生や助産師さんの話によると、一般的に36週をすぎると個人院でも出産して問題ないと言われているようで、そこからは、もう少しお産を先延ばしにするため、子宮の収縮を抑制するウテメリンという薬を点滴し続けることになった。点滴をしている間は張りも落ち着くようだった。

その日は、前日から先生と相談していた通り、いったん点滴を中止して、張りがおさまっているようであれば、一度退院して様子を見ようということになっていた。私も家に帰りたかった。あわよくば自宅で過ごしながら正期産になる37週以降まで待ちたかった。 そうして、25日の11時頃、6日間続けてきた点滴をやめた。

するとその4時間後、お腹の張りが気になりはじめた。夕方には5分間隔で呼吸が詰まるような痛みが伴うようになった。ちょうど面会に来た夫とは、きっとしばらくは張りや痛みにたえることになるだろう、と話をした。翌日までに張りがおさまれば家に帰れると伝えた。1時間の面会時間が過ぎ、夫は不安そうな顔をして帰っていった。

夕方頃は6〜7分間隔だった陣痛が、19時台は3〜4分間隔になり、痛みも強まっていて、めちゃくちゃ不安だった。でもこの時点でさえ、そんなに簡単に生まれてくるわけがなかろうと高を括っていた。

その後2回ほど、抑制剤を肩への注射で追加したものの張りも痛みもおさまらず、21時頃トイレに行くと出血があり、診察をしてもらったところ、子宮口の開きはすでに3センチ。「このままお産に進みましょう」という先生のひとことで、あれよあれよと、それまでの切迫早産を食い止める処置から反転、一気にお産に挑む準備へと切り替わっていった。

結局、期待していたように自宅に帰れるということはなく、そのまま出産することになった。

お産自体は驚くほどスムーズに進んで、覚悟も緊張もする暇も余裕もなく、分娩室に入って2時間後くらいには子宮口も全開近くまで開き、立ち合いを予定していた夫を急いで呼びつけることになった。風呂上がりにLINEに数件のメッセージが届いているのを見た夫はだいぶ焦ったそうだ。 無痛分娩を希望していたので、麻酔を開始するとしばらくして痛みもおさまり、普通に会話ができる状態になっていた。

分娩室では、天井から下げられた大きなテレビがついていて、YouTubeで延々とクリスマスソングのプレイリストが流れていた。取り上げてくれた助産師さんが23時半頃、「クリスマスベビーがいい?」と聞いた。「せっかくなのでそれもいいですが、間に合いますかね」と答えた。結局、あと一歩間に合わず、翌0時4分の出産となった。

そうして息子は私のもとにやってきた。 この記事を公開している1月20日は本来の予定日。それよりも25日も早かった。それでも生まれてみれば大きさも十分、大きな産声をあげる、元気な男の子だった。 妊娠も出産も思い通りにならないことが本当にたくさんある。産休中にやりたかったマタニティヨガも契約だけして一度も行けなかった。計画していた年末の大掃除も一つもしてない。インスタやYouTubeで調べ倒していた入院準備もまったく役に立たず、夫が即席で準備した。世界一幸せな洗濯と言われる子どもの肌着などの水通しも、入院中に夫が1人でした。 それでもそんなことは全部どうでもいいくらい、息子が無事に生まれてくれたことが何よりもありがたい。 もともと子ども好きとは言い難い私が、自分の子どもを、生まれたてのしわしわの新生児をかわいいと思えるのかというのがずっと疑問だったけど、真っ赤な顔で泣き叫ぶ息子は目にした瞬間からめちゃくちゃかわいいと思えた。 この記録を書きながら出産に至る出来事を一つずつなぞっていくと、全部が味わい深い大事な思い出になっていることがしみじみわかる。 妊娠と出産という、一生の思い出、一生の財産をくれた息子には感謝しかない。

出産予定日の今日時点での体重は、洋服分をさっぴいても3500gを超えました。

ゲームで負けたときキレるのは悪いことじゃないということにした

(下書きしたのはちょっと前なので、投稿時期と内容がずれているところがあります。スプラ3発売は2022年9月9日)

スプラトゥーン3が発売になるということで、ここ最近スプラトゥーン2をよくやっている。 スプラトゥーンは負けがこむことを沼るとか表現するらしいが、私はよく沼りまくっている。そういうときに、横から何かを言われたりするとめちゃくちゃキレてしまうことがある。 子どものときからよくこんなことがあった。ファミコンの人生ゲームで負けるだけでぶち切れしてわーわー喚いていた。 子どものときはだいたい兄とゲームをすると圧倒的に自分が下手で馬鹿にされるから、だんだんゲームが嫌いになってやらなくなった。 大学生くらいのときも当時付き合っていた人と、ゲームではないが卓球をして負けたときに悔しくてブチ切れてラケットを床に投げつけたりしていた。 つまり昔からゲームに関して癇癪持ちなのである。 だいぶ大人になったのにいまだにこんなことをしてるなんて恥ずかしい。 でも夫とこの話をしてたら、ゲームでキレるのはださい、とか情けないとか、大人げないとかよく言われるけどなんでなんだろうねって話になって、そんなことどうして思わないといけないのかとなった。 別にゲームでキレてもいいんじゃないか。 友達とやってて、その友達はただ楽しくやりたいだけなのに私がブチ切れて楽しい雰囲気を台無しにするのはなんかよくなさそう。 他の人が楽しみたい気持ちはそれなりに優先すべきこと。 でも気心がしれた夫と二人でやってるときくらい、別にキレてもいいよね、ということになった。

ラジオが苦手だったけどPodcastを聞きはじめたら案外よかった話

ずっとラジオに苦手意識があった。 ラジオ好きの人はもともと趣味として自宅や移動中にラジオを聞くのは普通のことだろうと思うが、私にとってラジオはずっと車の中で流れるものだった。 子どもの頃は田んぼに囲まれた田舎に住んでいたので、休日になると父親の運転で繁華街がある県庁所在地まで2時間ほどかけて遊びに行っていた。 その道中に流れていたのがラジオなのだ。

休日のお出かけ以外にも、母の両親が離れた場所に住んでいたこともあって7時間とか10時間とか家族で車移動することもあった。 うちの家族はおしゃべりでにぎやかというタイプではないので、車の中ではほとんどの時間を静かに流れる景色を見ていた。 田舎から高速道路に乗った移動で車の窓から見えるのは、終始、田んぼ、山、トンネル、山、田んぼ(繰り返し)だ。特に代わり映えはしない。 同じ姿勢でじっと、そういう風景を見ていた。

加えて、私の体質は車酔いになりやすかったり、トイレが近かったりと、長期移動に向かない。 たいていの移動が楽しい思い出より、我慢の思い出の方が多い。 ラジオはそういう長距離移動の記憶とセットなのだ。 だから、大人になってから車で移動するときも同行者にお願いしてラジオはあまり流さない。 ラジオを聞くと車酔いしてしまいそうになる。

ずっとそうだったのに、最近ついにPodcastを聞くようになった。 コロナになって、運動不足が深刻になってきて、なるべく散歩に出たり、徒歩で20分くらいのところにあるジムに通うようになった。 その徒歩の移動時間にPodcastを聞いてすごすのがちょうどよい。

はじめは、Youtubeでしゃべりがメインのものを音声だけ聞いていた(考えてみたらこれはほぼPodcstで叶えられる)。それだとやっぱりどこかで画が欲しくなってしまう瞬間があったり、なんとなく音声だけだと間延びしてつまらなく感じたり物足りなかった。 その後試したのがAudible。実用書とか小説の朗読を倍速とかで聞いたりしてたのだが、情報量は申し分ない。文字情報だけで済むものを音声にしたものだから、理解に足りないということはない。ただ、情報がしっかりしすぎてわりと真剣に聞きすぎてしまうというのが難点だった。 ぼーっと散歩したいのに、それだとしっかり聞いて考えごともしながら足も休めない、みたいになっていって大変だった。

その点、Podcastはちょうどいい。人と人の会話が多いし、そういうものは適度にやりとりのよい間があったり、相槌の時間があったり、あまりせかせかした気持ちにならない。 もともと音声情報を聞いていることは好きだった。読書は読み続ける努力が必要なので考えごとがはかどりすぎて進まないとか、そもそも興味を維持できなくて進まないみたいなことがあるタイプなのだが、Youtubeみたいに受動的に流れてくるものを受け取り続けるのはそれほど苦じゃない。 さらにいうと、私は人の話を聞くのが結構好きだ。 だからもともと純粋なラジオ耐性はあったんじゃないかと思う。それが車の長距離移動との思い出によって変な風に失われていたのだろう。 Podcastを聞き始めようと思ったのは明確に気になるコンテンツがあったのがきっかけだったのだが、試してみてよかったと思う。

蚤の市でアンティークのコーヒーカップを買った

赤坂蚤の市というイベントに行ってきた。

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youtubeで動画が流れてきてその存在を知ったのだけど、よくフランスとか海外在住の方が蚤の市をめぐる動画を見ていて羨ましく思っていたけど、都内でもこういうヨーロッパの品物を扱う蚤の市があることを知らなかった。


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赤坂蚤の市は毎月開催だそうで、ちょうど次回の7月は第100回とのことで単純計算で100÷12で、8年以上開催されいてるイベントらしかった。まったく知らなかった。六本木一丁目駅からすぐのアークヒルズアーク・カラヤン広場という開けたスペースに、食器、雑貨、アクセサリー、焼き菓子、洋服と様々なブースがひしめいていた。11時開始のイベントに20分くらい過ぎたころに到着したが、もうすでに人気のブースには人だかりができていた。

特にアンティークの食器を扱うブースは人気で、みなが手にとって裏表をひっくり返しながらじっくり眺めて吟味していた。値段はまあまあよいもので、私の財布事情的には勢いでばんばん買えるようなものではなかったので、本当に気に入ったものや状態と価格のバランスで納得できるものを探す必要がある。そういう品物が売り切れてしまわないように開始直後から人が多いのもうなずける。周囲を見ているとアンティークのボタンも人気だった。アクセサリー類もたくさん出ていたけど、これまたなかなかよい価格帯だったので、2〜6個くらいのセットで600円から900円と手に取りやすく、パーツと組み合わせたらワンチャン自力でアクセサリーにできそうなアンティークボタンはお試し&記念に購入するには丁度よい品物といった感じがする。色や形も様々で、純粋にコレクション目的で購入している人も多いだろうな、とも思った。

いろんなものまんべんなく見て回ったけど、結局はアンティークのコーヒーカップのセットを買った。素朴で線のやわらかいパンジーの絵柄が気に入った。スウェーデンのロールストランドというブランドが1976年に創立250周年記念として販売した、Sylvia(シルヴィア)というシリーズのコーヒーカップ&ソーサーなんだそうだ。他にもケーキプレートとかシュガーポット、クリーマーなんかもあるそうで、店主さんに気に入ったなら集めてみてはどうかと提案された。これは一度足を踏み入れたら沼れそうな案件だ。

見て回るのを終えたら時間が12時半頃だったので、お昼はそのまま近くのレストランで食べた。アメリカンな雰囲気のレストランで、メニューを見るとハンバーガーがメインのようだったけれど、NetflixアメリカンBBQ最強決戦によく出てきてて憧れがあったマカロニチーズを食べてみた。

そのお店のマカロニチーズは想像していたものより味は濃くなく、ほぼチーズの塩味のみだった。暑くて汗かきすぎて塩分欲してて味覚がバグってただけかもしれないけど、少し薄味に感じた。ソースはナツメグとかクローブ系の甘い香りがした。

テラス席でぼんやり過ごしてたら、炎天下の中の移動と興奮しながらブースをまわった疲れがどっとやってきて、お昼を待ちながらうとうとした。テラス席からはそのまま蚤の市の様子が見えるのだけど、位置的にはブースの後ろ側の少し離れたところになる。さっきまではお客としてあちら側からブースを見ていたのに、今はブースで売り子をする人たちを後ろから眺めることになる。急に自分の視点もお客から売り子側になって、この人はファッションの感じからするにこのブースのターゲットにマッチしてそうだから足を止めてくれるかな、とか、こういう客層の人たちだったらどんなものが目を引くのかな、とかそんなことを考えていた。デザイン的には一番気に入ったのだけど、高くて変えなかったアンティークビーズを使った手作りのアクセサリーを売るブースで、品の良さそうな年配の女性が品物を買っていく様子を眺めながら「よしよし」とつぶやいたりして、気づくと推しを応援する気持ちで見ている自分がいた。

調べてみるとこういう蚤の市は他にもちらほらありそうだった。どうしてこれまで気づかなかったのか。

aoyama-koichi.com

tokyonominoichi.com

日本の骨董品を扱う蚤の市も大好物そうなので行ってみたい。

www.antique-market.jp